選考委員の選評

岸本佐知子

一般推薦投票が始まってから受賞作が決まるまでの数か月間は、今までの人生で経験したことのないような、熱くてスリリングで胸おどる、何か夢のような時間でした。

最終候補の五作はどれもそれぞれに素晴らしく、その中でどれかを選ぶというのは、なかなかに苦しいことではありました。でも、最終的にこの二つを受賞作に選べたことは、とても嬉しく、誇らしいことでした。『カステラ』は、読んでひたすら面白く、しみじみと共感でき、そして何より訳文が素晴らしく活き活きとしていました。『エウロペアナ』は、歴史を材料に繰り広げられる壮大なモンティ・パイソンのようで、淡々と、にこりともせず続いていく訳文が、その面白さを最大限に引き出していると感じました。

未知の扉を開いてくださった四人の訳者の皆さんに、心からお礼を申し上げます。

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柴田元幸

最終選考に残った5冊はいずれも、作品としてそれぞれ独自の魅力があり、翻訳の質も高く、また、2014年の日本において出版される意義もそれぞれ備えていて、どの作品も大賞を受賞する資格が十分にありました。そのなかで、『カステラ』『エウロペアナ』の二作が受賞したのは、日本の読者にまだいまひとつ馴染 みのない国の文学であるといった外的要因もないわけではないけれど、やはり何といっても、作品のユーモアや切実さをくっきり伝え、言葉の向こうにひとつの 世界があることを確かに感じさせてくれる、上質の訳文が決め手になったのだと 思います。

ほかの選考委員も言うと思いますが、第一回をこうしてやってみて、読者の皆さんの推薦による第一次選考の質の高さが何より際立っていたと思います。賞にかかわってくださったすべての方々に感謝します。

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西崎憲

『カステラ』ヒョン・ジェフン・斎藤真理子訳(パク・ミンギュ著)

訳文はまれにみるほど滑らかで、読んでいて翻訳文であることを感じる瞬間はほとんどなかった。読みやすい訳文、滑らかな訳文が、小説の文章としてそのまま価値があるということにはならないが、内容との照応の面でも文体の選び方に納得させる力があるように思った。また、原作の改行の独特さは日本の小説にはないもので、そのまま移したことも効果的だった。

『ストーナー』東江一紀訳(ジョン・ウィリアムズ著)

訳語の選択に意が用いられていることが伝わってきた。細部へのそうした配慮と、全体の淡々とした雰囲気の醸成のバランスは訳者の工夫であろう。訳者の念が伝わるタイプの訳文ではないかと思う。

『エウロペアナ:二〇世紀史概説』阿部賢一・篠原琢訳(パトリク・オウジェドニーク著)

後書きに前半と後半に分担したと書かれていて、たしかに調子はわずかに違っていた。全体としてはひじょうに抑制されたもので、派手な訳語、言いまわしを避けている印象があり、その口調は、作者のオウジェドニーク氏の声を活かそうという共通の理解の元に錬られたものではないかと思った。小説の可能性、理知的な文体というものにたいする二人の訳者の見識が感じられた。

『愉楽』谷川毅訳(閻連科著)

広島弁の実験的な使い方に驚いた。効果の面では判断が難しいところもあるが、翻訳にもやはり冒険は必要ではないかと考えさせられた。原作の熱をそのまま移そうと試みていることも伝わってきて、一定の成功を収めているように思った。

また差別語が多数使用されていて、それを用いるのは不可欠だろうと読んでいて思った。差別語の使用にはもちろん難しい点が多々あるが、まずリスクを避けることが前提である風潮のなか、訳者と出版社の英断に拍手を送りたい。

『黒ヶ丘の上で』栩木伸明訳(ブルース・チャトウィン著)

双子の人生をたどるという内容であり、小説としては穏当な部類に入るだろう。内容への理解がひじょうに的確だと感じた。ウェールズという土地への愛着、ノスタルジックな描写などのあたりに訳文の冴えがあった。

最終的に『カステラ』『エウロペアナ:二〇世紀史概説』を大賞に推したが、前者は翻訳文への日本の読者の抵抗を和らげるものであり、そのことには翻訳者として感謝したい気持ちを覚えた。また後者にたいしては、紹介の労にたいして感謝の念を捧げるべきように思った。

読者賞に推した『ストーナー』の訳文は、訳者自身が読む喜びを感じながら訳していることが伝わってきた。また訳す喜びも行間から感じられた。翻訳者というのは一読者でもある。そのようなことを思わせるあたりも、読者賞という名の賞にふさわしい訳文、訳書ではなかったかと思う。

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金原瑞人

今回の選考にかかわってまず驚いたのは、読者投票で上位にあがった作品の面白さでした。次々に寄せられる感想を読むのも楽しい作業でした。どれも、「おお、これを選ぶか!」「おっ、そうくるか?」というものばかりでした。選考委員も推薦本を第2次選考に入れられることになっていたのですが、あらかじめ考えていた2冊は読者投票の上位10位に入っていました。『カステラ』と『ストーナー』です。そこで、だれも票を入れていない作品をひとつ推薦しました。

最終選考に残った5冊ですが、どれも読み応えがありました。『愉楽』の持つ破壊力、『黒ヶ丘の上で』の、これぞ小説ともいうべき描写力は、訳文から十分に伝わってきました。『ストーナー』は地味でストイックな主人公を、ていねいに描いた魅力的な作品です。『カステラ』は、斬新さと不思議な懐かしさがじつにバランスよく混ざり合った短編集で、ぼくの一押しです。『エウロペアナ』は攻撃的で過激で、そのくせあざといほど抑制のきいた作品に仕上がっていて、「やられた!」という1冊でした。読みながら、古川日出男の『ベルカ、吠えないのか?』を思い出しました。

以上、簡単に感想をまとめてみました。

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松永美穂 

賞の選考は手探りでスタートした感じでしたが、読者の方々の推薦文は、「ほんとうにこの作品が好きなんだ」という気持ちが伝わってくるものが多く、翻訳作品を愛している人がこれだけたくさんいることに励まされました。最終選考に残った5冊は読みごたえのあるものばかり、どれを推すべきかほんとうに迷いました。小さな出版社が「ぜひ読んでもらいたい」と力を込めて世に送り出した韓国の短編集『カステラ』と、チェコの作家が書いた異色の「20世紀史概説」である『エウロペアナ』が受賞しましたが、訳文の安定感のほかに、原作の魅力を伝えようとする訳者や編集者の方々の情熱と工夫が強く感じられ、「この本を読んでよかった」と思える作品でした。

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