受賞のことば 阿部大樹・須貝秀平|『精神病理学私記』(H.S.サリヴァン)第六回日本翻訳大賞

阿部大樹

 見過ごされているものに目を向けることができればと普段から思っていますが、私にとっては翻訳もそのためにすることの一つでした。賞をいただいたことで、それが自分にとってだけでなく、もう少しだけ広い意味をもつことになったように感じます。ありがとうございました。


須貝秀平

 この度は選んでいただきまして誠にありがとうございます。

 これを見ていただいてます皆様、もしかして本を買って下さったかもしれませんが、多分読みたかったのはサリヴァンの本であって、まさか阿部大樹と須貝秀平の本ではないと思います。翻訳はなかなか光が当たりにくいものです。また、一般的な翻訳のイメージといえば「原文をそのまま忠実に訳す」のようなものだと思います。ですが僕たちそれだけじゃない、だいぶ変えたんだ、ということを2点ほど述べさせて頂きます。

 1つ目に、サリヴァンの文は全体的に強烈に読みにくいです。まず逐語訳しても全然理解出来ません。代わりにどうしたかというと、阿部くんとバチバチ議論しながらまず死に物狂いで原文を理解して、あたかもサリヴァンの姿が見えてくるような気分にまでなって、それからやっと最後に心の底に残った感慨のようなもの、それを訳しました。ですから、省略・補足・順番変更など、躊躇なくしました。しかも逆に、絶対に変えてはならない単語やコダワリもたくさん見えてきますから、それは徹底的に正確に日本語に訳しました。僕たち翻訳家というのは全然透明人間ではなくて、避けがたく個性が出てしまう、むしろ出るべき存在なのです。

 それに関連して2つ目ですが、そもそも『精神病理学私記』 、審査員の方々にも大変ご迷惑おかけしてますが、こんなの誰が読むかと。でも本当は僕たちこれは医療従事者だけでない色んな方々に読んで頂きたいのです。それはなぜか。まずサリヴァン、精神疾患を治すには本人の治療だけでなく親子関係さらには教育社会制度まで総取っ替えしなくてはダメだ! と書いています。ですから是非色んな立場の人に読んでいただける文章にしたいのです。
 また、僕たちは1990年に生まれましたが、30年弱で財政問題から環境問題からコロナまで、何だか途方も無い問題がゴロゴロ噴き出しております。これに立ち向かうために、色んなバックグラウンドの人々が協力しないといけません。例えばサイエンティストと政治家、高齢者と若者、障害の重い人軽い人、いやそれこそ同じラベルを貼られた人の中でもものすごい個人差がありますから、そこを乗り越えて何とかみんなで世界を変えないといけないのです。ですがここ30年で特に非常に世の中が多様化し、みんな一見日本語を喋っているようでも実は違う前提で言葉を使っていて、そのままでは通じないのです。こういうのを乗り越えて、相手の心の形にはまる言葉を紡ぎ出す橋渡しが、これからの時代絶対に必要です。翻訳もそういう心構えでやらないといけない。ですから間違っても、難しーい専門用語をドッサリ使って、どや難しいやろ! 俺こんなん訳したんや! 偉いやろ! みたいな姿勢はやめようと。伝わるように訳そうと思いました。
 これは阿部くんが言っていたことでもありますが、最近は機械翻訳・自動翻訳があるので、難しいものを難しく訳すだけの翻訳家は存在価値がないという厳しい時代です。ですからやはり橋渡しというヒューマニスティックな価値を出していかないといけない。そこまで言っておいて、出来上がったモノがこの程度かと思われるかもしれません。ですがともかく、これが僕の思う所です。

 そのような訳で、人と人をつなぐという広義の翻訳がこれからますます大事なのです。このような場で翻訳者に光を当てていただいて、自分自身が賞を取ったという以上に大変尊い意味があると、思っております。そういう事で結びと致します。改めてありがとうございます。