『アカシアは花咲く』『精神病理学私記』一次選考推薦文

第六回日本翻訳大賞の決定を記念して、一次選考で読者の皆さまからいただいた2作品の推薦文を再掲載します。

『アカシアは花咲く』(デボラ・フォーゲル/加藤有子訳 松籟社)

【推薦者】松尾 菜穂子
1935年にイディッシュ語で、翌年1945年にポーランド語で刊行。本書はポーランド語版の邦訳。 あえて考えようとせず言葉を瞳に滑らせ頁を捲っていると、不思議なことに自然と絵画が浮き上がってくる。 キュビズム系美術やモダニズムがお好きな方に、お勧めしたい作家である。


『精神病理学私記』(H. S. サリヴァン/阿部大樹、須貝秀平訳 日本評論社)

【推薦者】神戸の 物好き
待ちに待った翻訳でした。 はじめてサリヴァンが翻訳されたのが50年近く前で、それからおよそ10年に一作ずつ。これまでの翻訳者だった中井久夫先生が病気に倒れて、もう読めないかと思っていましたが、若い訳者が出てきたようで嬉しいです。 ひとの心を考えるときに、queerというのが何を指しているのか、そんなことを考えながら読みました。

【推薦者】佐藤 隆
患者と交わしていたスキゾフレニックな夢の語りが、いつの間にか現実の話になり、しかもそれが著者自身の追想と入り混じっていくところ(第9章)は、素晴らしい高揚感と背徳がありました。 おそらく原著が書かれたのは、エリスンが『見えない人間』にサリヴァンを書き込んだころでしょうか。アメリカ文学のルーツの一つとしても、この本が翻訳されたことが嬉しいです。

【推薦者】くましろ たかし
禁酒法時代のシカゴ、寒村から一人でやってきた新米の精神科医。同性愛者として、あるいはアイルランド系移民としての葛藤。ヨーロッパから亡命分析家たちがやってきて、少しずつアメリカに精神医学が作られていくころの話。 著者自身の生活史が匿名の患者として(しかも複数の別々の患者として)あらわれる精神医学の教科書はおそらく唯一だろう。けれども著者はそれを隠したかったのか、原題Personal Psychopathologyはどことなく両義的。 これを『私記』と訳したのはうまい。 紀伊国屋じんぶん大賞で懐かしい名前をみかけて購入した甲斐があったと思う。推薦します。

【推薦者】et cetera 
1932年の著作のこの本が2019年の日本で翻訳・出版されることを意義深く思う。精神病理学の教科書の体を取りながら、読者はサリバンの人となりに魅せられていく。通奏低音としての「精神医学は対人関係論である」、強いメッセージとして「自分自身を患者の立場にどこまで置き換えることができるか、意識的かつ理知的に・・・」、最後の言葉は、医学・福祉を目指す人のみならず全ての人々に届く言葉である。

【推薦者】sesha lover
言語病理をきたしている人の言葉まで日本語になっていて驚く. “last” “lad” “sad”とpunningを起こしながらノートを埋め尽くしたスキゾフレニアで同性愛の子は『終焉少年無念』と書いたことになっていた!ユリシーズの翻訳でも読んでるようだった…翻訳者の経歴を見て二度驚く.

【推薦者】小見 豊
ゴールドラッシュの後の米国に渡った、アイルランド移民一家のモノグラフとして読んだ。 乳児期を語る章では(「月と若馬」など)まだアイルランドの香りが強く、就学する頃になると、ハリウッド映画の全盛期に当たるからだろうか、初恋と映画ヒロインの結びつきが語られたりする。私見だが、原著者はこのころに自身の同性愛を自覚したのではないだろうか。 女性の章では、女が「ペニス羨望」を持つわけではないこと(今にすれば当たり前のことだが、当時も今も、だれよりも保守的なのは精神分析家たちである)、そしてアメリカで女性参政権が取り戻されたことの意味が語られる。 最後の章には、どことなく戦争の予兆がする。 筆をおいたのが大恐慌のころらしい。 ー人間の成長を語るという体裁をとりながら、20世紀初頭から二次大戦前までの、「頭痛薬でも飲まないとやってられなかった」、あのアスピリン・エイジのアメリカを読むようだった。

【推薦者】大原 公威
基本的には統合失調症の心因論。現代ではクスリで寛解できる病となったが、だからといってこの本がもうお役御免という訳ではない。生活歴を今こそ馬鹿にしてはいけないという警鐘のように感じる。いやそれどころか、寛解が当たり前なのだからもっと生活歴に割ける時間はあるはずだろう、と言われているようにすら思える。身の引き締まる思いで読ませて頂きました。

【推薦者】たまひよ こっこ
そこかしこに現れる治療方法や時代背景の古さを除けば、これってまさに2010年代の日本じゃないか! と思わされた。人と人とのコミュニケーションがあまりに未熟、そのせいであらゆる社会階層の間に疎外が生じ、当然に患者の隔離も起こるなど・・・日本はアメリカより100年近く遅れているのか? 古くて新しいとはまさにこのこと。

【推薦者】ユミ シノ
第7章、パラノイアに憑かれた青年とサリバンの会話。緊張を孕んだ二人の会話の「間」が印象的だった。慎ましさというか… 精神病理学という大きな学問を、「私記」によって描き出そうとするのだから、相当な胆力があったんだろうと思うけれど、それに反した静けさのようなもの。第9章、赤いカンテラから逃げるように帰ろうとする少年の独白もよい。 たしか40年くらい前、伝記Psychiatrist of Americaが出版されたとき、たった一人の医者のまわりにルーズベルトとかルース・ベネディクトみたいに戦後アメリカを決定づけた人たちが集まっていたことが(驚きをもって)話題になった記憶がある。おそらく精神科医として優秀だったからなんだろうけれども、そのころに翻訳されていたのは技術的なものが中心だった。『私記』の翻訳は記念碑的なものだと思う。 ―書いていて、キング牧師がたしか死ぬ直前、自分がやろうとしていることを「この社会に対する精神医学なんだ」と言っていたことを思い出した。